試練を与えることが良いことだと思ってきた、その自分の信念が揺らいだ瞬間だった、と書いてあった。
世の中を見ると、全ての人々が幸せになることを目指しているケネス星であるにも関わらず、そう、なっていかない面がある。
避けられない運命的な不幸が、重ねてある人に集中してもたらされている事例がある。
連続して、運命的な不幸が襲っていると思われる事例がある。
ほんのちょっと、時間が早ければ、あるいは遅ければ、こうはならなかったのに。
ほんのちょっと、注意を向けていれば、これほどの重大なミスが起こらなかったのに。
転がり落ちるように、不幸が襲っている事例がある。
ケネスでは、死んだ後の世界がある、実在すると、事実として信じられていた。
何千年前の祖先の日記の中でも、実際に死者の霊を見たり、話したりした記録があり、そして、それは、現在も途切れることなく続いていたからである。
なぜか、不幸なめぐりあわせとなっている事例の裏に、生きている人間に試練を与えることは良いことであるという、霊界の人たちの考え方があるのではないかと、その父親は述べていた。
試練を良いこととする考え方が霊界を支配していれば、生きているケネス星人全てが幸せに満ちて、全てが明るい笑顔になる世界、は作りえないのではないかと、その父親は語っていた。
生きている自分たちはやがては、確実に死ぬ。
自分たちが、生きている人間に試練を与えることを心の成長に必要だと盲目的に肯定するのではなく、試練を与えられた人間の悲しみ、苦しさを直に感じ取れるだけの感受性を持って、そして、一番大切なのは、全ての人々が幸せになることではなかったかと、霊界で訴えて回れば、やがては、それは大きな変換となって霊界に広まり、やがては、生きているケネス星人全ての幸福の実現を推し進めることができるのではないか、とその父親は結んでいた。
サライは、かつて受けたケネス教育プログラムの、この一説が、鋭い刃物のように、心に突き刺ささるのを感じていた。
サライがこう考えるのには、理由があった。
先々月、ネドが、ラムダ星を表敬訪問している僕を、宿泊しているラムダのケネス大使館に訪ねてきた。
今度のテラの任務で、ケネスでは危険な地域と言われているある星のある地域に、降下して調査をすることになった。かなりな人数で降りるので、前もって、安全策を取らないと、ケガ人、いや、死者が出るかもしれない。誰も犠牲者を出したくない。ケネス宇宙軍に協力をお願いできないかとの話だった。
僕は、それを断ったのである。ケネス星の宇宙連邦軍に対する批判はもう、その時も、大きなものとなっていて、影で救出に当たり続けることに対し、もう、ケネス宇宙軍としても、これ以上は限界であるとの空気に満ちていたのである。